花束みたいな恋をした、で出てきた
「もうパズドラくらいしかできない」状態ってマジなんだなぁって最近めちゃくちゃ思ってます。
あと縦読み漫画って、すごい読みやすいというか持ってかれるソースが少ないんだなぁって思います。
ピッコマとロイヤルマッチが最近の電車のお供です。
PinterestもInstagramも疲れた頭には重たくて、Twitterの広告で見かけた縦読み漫画をピッコマとかマンガUP!とかで見つけて読んでます。
最近のお気に入りはピッコマの「継母だけど娘が可愛すぎる」です。
最近、仕事がとても忙しいです。
最近、と言いつつ結構長いことずっと。
年明けからかな、と思ったのですが年明けてからもう1ヶ月以上経ちましたし、
年明ける前から忙しかったので結構ずっとの部類。
たぶん特にここ3ヶ月くらいはデスクワークの時間が、生活の多くの割合を占めてるんじゃないかなぁ。
転職する前と比較すれば規則的に忙しいので、不規則に劇的に忙しいよりは、そりゃあだいぶマシなんですが、年の瀬に、2024年は穏やかな年になって欲しいな、なんて思っていたのでこんな忙しさは予想外で、結構心がへたってきてます。
しゅんって感じです。地球め!!!アースクエイク!!!
デスクワークも嫌いじゃ無いですし、今は特に人の役に立ってるなぁ的な内容なので参っちゃうわけじゃ無いんですが、毎日早く帰れている同じ会社の別の部署の人を見て、いろいろなことを思って10秒ほど停止するくらいには疲れてきています。
ぼーっとするのが好きなので、ぼーっとし足りて無いんですよねたぶん。
時間を時間として過ごす、というか。
川辺に座って水を眺めたりとか、出先で用事を済ませた後に、行ってみたかった珈琲屋さんの存在に気づいてたまたま飲めたドリップコーヒーだとか、そこで珈琲豆を買ってきたりとか、それを上手に淹れたりだとか淹れられなかったりだとか、銭湯に行ったり、ぼーっとお絵描きしたり。なんか、目的のないぼーっとするための時間が、足りて無いなぁって思ったりしています。
誰かに、スムーズにパスするためのバトンを、円滑に用意する毎日。何かの目的のための上手な1個になる毎日。
そういう毎日を過ごしていると「わたし」がなにをどう感じているかとか、「わたし」と「社会」や「会社」と「わたし」の境界線や違いなどを考える体力が、どんどんほどけていっていて、急に重たい気持ちになったりしました。
なんだか嫌だなぁ、とか。なんだかおかしいぞ。とか。わたしとしてそういうわだかまり?わだかまりというか、漠然として重みのある、それでいて少しずつ積もって?溜まっていく、気持ちの塊(カタマリ)を抱えながら、でもその塊(カタマリ)の実態(色や形、実際の大きさや重み)を捉えられないまま、むしろ捉える体力もないまま毎日を過ごしていて、その実態をわからないまま塊(カタマリ)を抱えていることにさらに体力を持っていかれて。みたいな過ごし方をしていて。
なんかこう、温度も何もわからない黒い水の中に、揺蕩ってる、みたいな毎日です。自分というものが水の中でだんだんほどけていくみたいな。濁った水、濁っているので、沸かしたての湯船みたいな肌に刺さるヒリヒリしたああいう感覚もないし、かといって氷水のようなかじかんでいく感じもない。どちらかというと全てが鈍く感じる、あたたかさもつめたさもどちらも、感じられないような不安な水の中みたい。
いろんなものを感じる時に、ベール1枚挟んでるみたいな。
疲れていて、感覚が鈍くなっているのが怖くて、文章を書くことにしました。
こないだも、せっかく美術館に行ったのに、キャプションの文章を、目が滑って読めなくて。
とか、自分が刺さったなぁ、と思えた作品の「刺さったなぁ」の度合いが、去年見たものほど、深々、まで行けてなくてしょげたりとか。
わたしは、わたしがわたしを、わたしだと思えて、それが良いと思えること。を自己肯定感だと思っているのですが、
その中で、最初にあたる「わたしを、わたしだと思えて、」が、ままならなくなってくる感じで疲れているんだなぁ。と思います。
怖いなぁ。
日曜日も出勤です。ぴぃ。
暗すぎるのでそのうち消すと思いますが、わたしをわたしだと確認するための、セルフハグ的な文章。
わたしはわたしが何を感じているか文章にするのがとても好きなので、好きなことをしよう。と思って、洞窟のなかに石を投げ入れて、反響で大きさを知るみたいにこの文章を書いています。
打った文を読んで感じる、その文に対する自分の感想で、ああ、持っていた自分のもしゃっとした塊(カタマリ)はこの言葉に近い形をしているんだなぁみたいなことを思って、ちょっと安心します。
確認のための文章を打つ体力があった日、ということだな。ご自愛しようっと。