スキップしながら振り返る
電車に揺られる朝、
今日は、Creepy Nutsとヨルシカとずっと真夜中でいいのに。をきいて
日常会話
お芝居
詩
小説
映像
ゆらゆら電車に揺られつつ
昨日の暴風雨が嘘みたいに
青い空と強めの日差しにくらくらしながら
それらのそれぞれに
それぞれの、言葉と心の距離があるなぁと思った
すんごく感覚的だけど
日常会話が歩行だとすると
『詩的』とよばれるものたちは
ちょっとスキップというか、
平常運転日常会話で滑らかにするすると流れている動作?にあたるような、説明部分的なものがが抜けていて
ぐっと飛び跳ねるようだからこそ
飛んでから着地までの余白を想像したり
跳ねたパワーが別の何かを生み出したり
するんだろうなぁと思ったり
『詩的』なものの、余白を想像するというのは
ものごとについて
日常生活、滑らかに歩行して呼吸をするだけのとき以上に
意識して何かを
深く思い出したり、いつも以上に敏感に感じることなのかもしれない
いまも文章を書きながら
朝
あと5段登り切れば終わりの、駅の階段がやたらとキツかったこと
見上げて見えた階段の出口が、額縁みたいな青い空でいっぱいだったこと
地下鉄をのぼり切ったわたしには外の空気が想像よりも少し冷たくて心地良かったこと
など、
出勤の憂鬱さと運動不足であがる息と肩に邪魔されて、当の朝には感じられていなかったことが、断片的な記憶の余白を埋めるように思い出される
これはわたしが
日常生活の呼吸をしているだけの朝
に
思いを馳せて
浮かんできた『詩的』な風景に対して
その風景の余白を
思い出す形で埋めているからだ
ただ生きていても、
生きているそのたった一瞬、瞬間は
綺麗だとか愉快だとか面白いとか感じられなくても
あとからなにか
少し自分と距離のある
別のものについて想像して
余白を埋めたり
その瞬間、ではない自分の位置から振り向いて考えると
少し綺麗で愉快だったりする
そのスキップ感の違いが
ジャンルとかそういったものなのかもしれない
ゆっくりしたスキップ
跳ね回る激しいスキップ
優雅なスキップ
歩行とは距離のあるところの行為
立ち返った生活